きほんブルックリン

2019年日本への本帰国を目指しながら、大好きなブルックリンのこと日々の生活を徒然。

アメリカに30年住んだとしても、私たちの故郷が日本であることには変わらない。

クリスマス当日。
今年は旦那のファミリーディナーが無かったため、のんびりとした休日としてすごしておりました。

すると突然LINEがピコーン。と。
送り主は、西海岸在住の友人Kの母親、Kママからでした。

Kママ『みみっちょちゃん、元気?』

Kくんとは2012年頃、ニューヨークで出会いました。

Kくんは日本語はそこそこ出来る日系人で、マインドは日本人というよりアメリカ人でしたが、日本のサブカルチャーに詳しく、ゆらゆら帝国や、丸尾末広など、そのあたりの趣味がドンズバ(死語ですか?笑)だったので、すぐ意気投合して仲良くなりました。

Kくんが『僕のママはすごくクールな日本人なんだ、みみっちょにいつか絶対会わせたい。』と常々言ってくれたおかげで、数年前に西海岸を訪れることが出来た際に、Kママに会うことが出来ました。

Kママは西海岸にかれこれ30年くらい住んでおり、Kくんの父である日本人の方とは離婚をし、その後アメリカ人男性と再婚はしていますが、ほぼほぼ母腕ひとつでKくん含む3人のお子さんを西海岸で育て上げた、気合の入ったお母ちゃんです。

数日の滞在の間、Kママがどうやって西海岸に辿り着いたか、離婚の経緯、子育てをどうやってきたか、、、色んな話を聞かせてもらい、アメリカ在住日本人先輩として、たくさんアドバイスを頂いたのはとても良い思い出です。

 

そんなKママから急なライン。しかもクリスマスに。
よくよく話を聞くと、Kママから出た言葉は、

『離婚も完了していないのに、家を追い出されることになった』

『アメリカを引き上げて、両親の残る日本に引っ越すことにした』

という、なかなかシビアな内容でした。

 

現在の結婚生活がうまくいっていないことは何となく知っていましたが、とうとう来たか。というのが率直な感想でした。
そして、アメリカに長年住み、かつ、子供たちはアメリカ人で、アメリカに生活の基盤があったとしても、アメリカは自分にとってのホームにはならない。という現実を突き付けられました。

こうゆう例はたくさん見てきました。他人事とは思えないですし、明日は我が身かと思います。

故郷はいつまでたっても故郷であり、自分が辛い状況にいればいるほど、その故郷が恋しくなる。
こうして子をアメリカに残し日本へ本帰国していく人のことを一概に無責任だと言い切るひとがいるのですが、それはあまりに酷ではないでしょうか。
子供らを成人まで、大学卒業まで育てあげた今、しばらく(あるいは永久に?)日本に帰ったって良いじゃないって私は思うのです。

 

『みみっちょちゃんの年齢より長くアメリカにいる私だけど、日本でまったり暮らしていきたい』 

 

Kママのこの一言が、今の彼女からの精一杯の一言で、あまりに切実で、すごく胸が辛くなりました。

 

Kママがどうゆう経緯で、何がいま一番辛いのか、細かいことは分かりません。30年以上アメリカに住むことは、私にとって想像もできない感覚です。

ただ一つ、私のつたない8年間のアメリカ生活から想像できることは、長年のアメリカ生活で移民として生きることに疲弊してしまったのではないかと言うことです。


アメリカ企業で長年勤務したり、子供をアメリカの学校に通わせたり、生活のほとんどをアメリカ社会で過ごせば過ごすほど、自分が日本人であることを色濃く感じる人も多いのではないかと思います。

周りから『アジア人』の枠で見られること、それはもちろん紛れもない事実であり、そんな自分を誇りに思いますが、その事実がアメリカ生活の上で弊害となることもあります。

差別を受けているということだけを言っているわけではありません。『移民』として暮らすことの日々のハードル。それは越えられないハードルでは無いですが、そのハードルを日々ちょこちょこと超えることに、私ですら疲弊することがあり、それがこれから40年?50年?続くのかと考えるとそれは恐怖でもあります。

上記は完全に私の主観であり、Kママの思いとは裏腹かもしれません。でも、Kママには、ひとこと『お疲れ様です。』と心から送りたい。

 

日本に帰ればすべてがうまくいく。というわけではないし、30年ぶりに日本での生活を再スタートさせるなんて、おそらく浦島太郎状態になりますし、辛いことも多々あるでしょう。
Kくんはそんなお母さんことを『さびしいけれど、お母さんはその方が幸せだと思う』と言っていました。

『家族との絆』 VS 『故郷』なんて比べるものではないですが、国際結婚だとこの両方が手に入れられなくて、辛い思いをする人がたくさんいます。
改めて国際結婚の大変さ、乗り越える壁の大きさを目の当たりにした一件で、さぁ、この話を聞いた今、私はどうするよ?と改めて本帰国のことを考えさせられる一件でもあったわけです。