自家製さつまあげ
寒くなったら、すぐにおでんか、お鍋が食べたくなる。
そんなこんなで週末は友人を招いておでんナイトいたしました。
買い出しに行ったところ、某日系スーパーで売っている冷凍おでんのパックが『いったいいつの冷凍おでんなんだろう…』って思わされるくらい霜が降りいて、テンション下がりながらも仕方なく購入。
土曜日、だーいすきなグランドアーミープラザのファーマーズマーケットのお魚売り場に行くと状態の良い白身魚がたくさん!
もしや練り物も自分で作れるのでは・・・とふと思い立ったころには『タラに似たお魚ちょうだい』と注文していた次第です。
はてさて、思い付きでやってみましたが、これが功を奏しました。おでんに入れるのがもったいないくらいに美味しくて、冷凍のものとは比べ物になりません。
今日は思い付きレシピのため、シンプルになってしまいましたが次回は枝豆やエビを入れたりしてみたいなあ。紅ショウガも良い。
コブミカンの葉を入れたりしたらタイのさつま揚げ、トートマンプラーにもなりますね!
自家製練り物はまりそう。
こうゆう一手間ができるようになったのも、不便な環境にいるからこそであったりするので、日本に住んでたら多分わざわざさつま揚げなんて作ってなかったと思う。
揚げない簡単さつまあげ
・白身のお魚 切り身1パウンド
・ごま油 適量
以下A
・ゆずこしょう 1 table spoon
・卵の白身 1
・しょうが 大きめのかけら 1
・ねぎ(Scalion)4本
・しょうゆ 少々
・片栗粉 1 Tea spoon
1.白身のお魚を包丁でできる限りたたきます。
◎中華包丁や出刃包丁があると、重みがあるのでたたきやすいですよ。
2.しょうがはすりおろし、ねぎはみじん切りにする。
3.Aの材料を全投入してから、ハンドミキサーか、フードミキサーで滑らかにする。
◎ねぎの触感などを生かしたい方は、ねぎは後入れでも良し!
4.小判型や、小さな丸型など、お好みの形にまとめる。
5.深めのフライパンにごま油を1cm程度多めに敷いて、150度くらいの低温で時々ひっくり返しながら揚げ焼きにする。
映画BlacKkKlansman(邦題:ブラッククランズマン)を見て思ったこと
スパイクリーは怒っている。そりゃあ、めちゃんこ怒っている。
でもユーモアのセンスは無くさず、彼は今のアメリカに立ち向かっている。
アメリカとは、侵略と戦いの歴史で出来ていると、改めて思わされた。目には目を、歯には歯を。ハムラビの法に倣うように正義の剣を振りかざし、悪を征しようとしている。でも悪は無くならない、むしろ善と悪の溝は深まるばかりで、どんどん二分化していっているアメリカ。そんなアメリカに終止符を打つことを願ってスパイクリーはこの映画を作ったんだろう。
この映画はRon Stallworthによるベストセラー書籍Black Klansman: A Memoirを元にしていて、書籍は1970年代当時に初の黒人警察官であったStallworth自身の体験をもとに執筆されており、白人至上主義団体KKKへの潜入捜査の体験をつづったものです。
書籍から映画化になるにあたり、登場人物やストーリーなど多少の脚色は加えられたようですが、時代背景や人種問題をめぐる当時の混沌さは、かなり忠実に再現されているのでは、と思いました。
続く人種差別問題
舞台である70年代後半から現在まで、変わらず人種問題を抱えるアメリカ。2018年の今でも差別は無くならないどころか、『差別』の定義が多様化しているせいで、差別しているひとは差別の意識が無いままに人を差別している時代になっている。
『アメリカにいて差別を感じたことが無い』という人がいるのなら、それはアメリカ人のコミュニティ(友達との付き合いだけではなく、仕事や地域活動等を通したコミュニティ)に属していないから気付いていないか、世で起こっていることにあまりアンテナを張らずに生きている人々だと思う。
昨今のアメリカの二極化(白人VSそれ以外の人種=アジア人ももちろん”それ以外”側である)については、私も、正直もう何が何だか分からないし、どうしたらネガティブな力でいっぱいの二極化を止めることができるだろう、と毎日のように考えるけれど、結局のところはお手上げだ。
そもそも、アメリカに住んではいるものの私は移民であるし、中でも日本なんていうのんびりした国から来ている人間で、私は正直戦い方が分からない。移民としては当事者であるけれども、親や先祖を含んだ歴史的当事者ではないし、アメリカが抱えている事の重大さを考えると関与することは憚られるほどだ。
戦うということ
とにかくアメリカの人は自分の意見を主張してディベートしたり、戦うことが大好きだ。これは、政治的な見解等だけではなく、小さなこと、例えばやれ『インターネットが止まっている』とカスタマーサービスに話す時だって戦わなければならない。(なぜならカスタマーサービスin USは本当に劣悪で、『サービス』なんて二の次だからな!笑)矛先がなんであれ、小さなころから常に周りと戦って生きている人種であるように思う。調和なんて二の次だ。
この映画の中では、私みたいに戦い方の分からない人間は出てきておらず、皆が、自分が信じる善・悪の名のもとに戦っていた。まさにアメリカ社会そのものだ。
正直トランプ当選以降から、MeTooムーブメントやら、人種問題やら、戦いの場面が多すぎて、こうゆう戦力むき出しの人々をみると、ちょっと『うっ・・・』と感じるようになってしまった。フェイスブックひとつ取っても、周りのアメリカ人は常になんらかしらのステートメントを掲げながら生きているし、そうゆう日々の戦いに私はちょっと疲れている節がある。
もちろん意見を主張することが大切なのは分かるし、沈黙することは罪であるという彼らの主張もよく分かるのですが、戦うということは、結果的に勝者と敗者を生じるということ。それがヒーロー映画だったのなら『勝ったね、万歳!グッドエンディング!』で終了なのですが、現実世界ではそうはいかない。敗者が敗者であることに納得はいかず、その後復讐が生まれ、復讐は1世代だけにとどまらず、2、3世代と世代を超え、まさに負の連鎖だ。どんどん溝は深くなるばかり。ということを傍から見ていると感じます。
力以外での戦いを
今回の映画の中で一番好きだったことは何と言ってもスパイクリー監督のユーモアのセンスでした。
今のアメリカ社会に対する強いメッセージを提示し、映画に緊張感を持たせながらも、ユーモアたっぷりに次々とシーンを消化していって、スパイクリーあっぱれです。
彼の中にも怒りはすごく溢れているだろうに、怒りを他の形に消化させて戦うのはカッコいい。でもみんながみんな、スパイクリーのように天才じゃないし、怒りを作品に消化するなんてことができるわけではない。
各々、怒りを声にすることで衝突がおき、シャーロッツビルの事件のようなことが起こっているのがここ数年の動き。もう同じやり方では世界は変わらない。声を大にして、自分の主義思想を唱えたところで、他人の思想はそう簡単には変えることはできないように私は思える。
世の中の変えかた自体を変えていって、議論の仕方を変えていかなきゃいけない。と、この映画を見てすこーし思ったのでした。
追記
映画内で、『このひとスティーブブシェミに似てるなあ』ってずーっと思ってたら、ブシェミの弟でした!俳優だったんだね~
あと、ヒロインのLaura Harrierがめっちゃんこ可愛い。くちびるが厚くてセクシーで、可愛くて、おまけに70'ファッションが似合う可愛いアフロねーちゃん。サイコー。
2年くらい前の青春を思い出して
おととい見たスパイクリーの新作映画の感想を書きたい、近所のお気に入りのレストランについて書きたい〜
なんて色々考えを巡らせつつもどうも考えが纏まらず・・・
おまけに絶賛無気力、ちょっぴり鬱モードに襲われているここ数日。
原因は二つあって、一つはホルモンバランス(こればっかりは仕方ない)、もう一つは数日前の休みがあまりに楽しすぎて、その反動が多分きてる。
楽しいことがあると、普段出てないドーパミンがバーっと出て、その反動で次の日どよーんときちゃう感じ。おまけに3連休明けの火曜ときたから辛かった!笑
その日は、2年ぶり?の友達と再会して、一緒に映画を見に行った。その子は2、3年前に1年くらいニューヨークに住んでたデザイナーの男の子(既婚)。
売れっ子で、キチンとした経歴の持ち主のデザイナーさんなのですが、彼には欠点(なんておこがましくて言えないですが)というか、私生活がちょっといきすぎてるところがあって、少し遊び人気質なところがあり、ジャンキー、とまではいかないけど、ちょっと破滅的な遊びに耽るところがある人でした。
昔は、その破天荒ストーリーを聞くだけで楽しかったし、ブッシュイックあたりのライブハウスに一緒に足を運んで、シークレットパーティー行って遊んだりと、大いに青春していたのですが、ここ最近の私は疲れていることもあって、『週末は朝早く起きてジムに行って、ファーマーズマーケットに行くことが一番の楽しみ』とか、『ドライフラワー作ってる』とか近況報告したところ『えっ?昔のミミちゃんはどこ行ったの!?大丈夫?』とヒジョーに心配されてしまいました笑
確かに思い返してみれば、当時私は飲酒量も今より多くて、土日は昼間からガンガン飲むわ、夜更かしはするわ、おまけに喫煙者だった。(完全禁煙した今では考えられない!)
うーむ、25歳からアラサーになるまでの女の変化って本当に恐ろしい!(私だけ?)
反して、相変わらずバリバリに夜遊びやらをして、40歳近くなっても既婚とは思えないような生き方をしている彼を、羨ましい、とか、そうなりたい、とこそ思わないものの、『やっぱクリエイターのエネルギーや探究心てすごいなあ』と関心したものでした。
そして何より驚いたのは、その友達と少し話しただけで、エネルギーの漲っていた数年前の自分に、フッと戻れたことでした。
たった数時間だけど、ものすごく楽しかったし、リリーフされた感じ。普段仕事でガチガチになった頭をすごく柔らかくしてくれた。
数年前一緒に遊んでいた頃、自分は独身だった頃の
『まだまだやっていけるじゃん』
っていうような、よく分からない20代前半の自信(当時すでに20代後半さしかかってたけど笑)みたいなものがみなぎる感じがした。
完全に忘れてた感覚だった。こうゆうことをポジティブっていうんだなって思った。
男と女の違いなのかな、はたまた最近自分が疲れているからなのかはわからないけど、すごくエネルギーをもらった1日でした。
こうゆうドアの開け方をしていって、またキラキラしていた頃の自分を取り戻したいって思わせてくれる1日だったのでした。
グリーンカードが終着点だと思っていた(それは大きな間違いであったという話)
ニューヨークで暮らして現在約8年。
8年という時の流れはとても短く感じるし、周りに在米歴10~20年余りの先輩が大勢いるので、大したアメリカ歴とも思っていないけれど、
日本の人にはたいてい『ずいぶん海外生活長いね!』と言われてしまうくらいの年月だということを、最近感じ始めている次第なのです。
20代前半で学生としてこの街に来て、大学院を卒業し、その後OPTを経て就職し、その間アメリカ人男性と恋愛結婚の末、グリーンカードを取得した。
学生時代はソーシャルナンバーを手に取ることが目標で、その後はビザが目標、そして最終地点はグリーンカード!って思ってた。(市民権取得にはそんなに興味が湧かず…)
まさに夢のグリーンカード。手にしたらアメリカ人と対等な土俵に立てるものだと思ってた。
これが大きな間違いだったのである。
いざグリーンカードを手にすると、今まで見えてこなかった『移民として、アメリカに永住するということ』の過酷さが一気に見える、見える。
社会保障を受けられるわけでもないのに、相変わらず高い税金(にっくきIRSとNYS....)や、高額の医療費といったお金の面もそうだけれど、簡単には病院にいけない等の不安が付きまとう。
ある程度の不便さには慣れてきたつもりだったけど、年齢って怖い、まだ若いとは言いつつも、身体に問題抱えた友達(おもに婦人系)を見ると、次は私かと不安になるばかり。
そして、グリーンカードがあるからといって自分がアメリカ人になるわけじゃない。
そんなことは分かっていたし、アメリカ人になりたいわけじゃないけど、旦那以外に家族もおらず、ただ歳を重ねていく状況に、将来的な『孤独』への恐怖が付きまとう。
これは近しい日本人の友人5、6人が一気に完全帰国した現状も理由だったし、アメリカに住めば住むほど『自分は日本人だな』と自覚することが増えてきたからだと思う。
一生この国にいるという自覚芽生えないなら、アメリカにいる必要はないんじゃないかな、って思えて来た。
アメリカ来るときもそうだったけど『やるならやらねば』精神で帰国を計画しなければいつまでもダラダラとここにいることになる!と自分を奮い立たせ、2019年には本帰国を目指すようになりました。
残り1年ないかもしれないアメリカ生活のことを、大好きなブルックリン(主に自分が住むパークスロープ周辺)のことを、ここに少しづつ残してみようかなと思い立ちました。
のんびりペースで。